本貫は昌寧。字は槿甫ㆍ訥翁、号は梅竹軒。諡号は忠文、父は、都総官・勝である。母の里である洪州ドウンゴルで出生する時、天から「産まれたか」と尋ねる声が3回聞こえ、三問と名前を付けたという逸話がある。
本貫は昌寧。字は槿甫ㆍ訥翁、号は梅竹軒。諡号は忠文、父は、都総官・勝である。
母の里である洪州ドウンゴルで出生する時、天から「産まれたか」と尋ねる声が3回聞こえ、三問と名前を付けたという逸話がある。
1435年(世宗17)に生員試に合格し、1438年に式年試を受験し合格した。集賢殿の学士に選ばれた後、世宗の命で訓民正音を作る時、鄭麟趾ㆍ申叔舟ㆍ崔沆ㆍ朴彭年ㆍ李塏などと共にこれを助けた。特に申叔舟と一緒に当時、遼東に帰郷していた明の翰林学士・黄瓚のところに13回も行き来し、正確な音韻を学び、明の使臣について明に行き、音韻と教場の制度を研究してくるなど、1446年、訓民正音頒布に大きな貢献をした。
1455年に首陽大君が幼い甥である端宗の王位を奪うと、成三問は父・成勝と李塏、河緯地、兪應孚、朴彭年、柳誠源など一緒に端宗を復位させようとしたが失敗し、凌遅処刑され、家も滅門の惨禍を受けた。
1691年(粛宗17)に官職を回復し、1758年(英祖34)吏曹判書に追贈されて、忠文という諡号が下された。1676年(粛宗2)に李樑や湖西の儒林などが先生の昔の家の近くに祠堂を立てて、死六臣を一緒に祀ることを要請すると、国から緑雲書院と称され、後で魯恩と名前を変えた。興宣大院君が書院撤廃令によって撤廃されたが、後で儒生たちが死六臣の位牌を祀って「魯恩壇」と称し、祭祀を行なった。
1954年、洪城古蹟顕彰会では祭壇を補修し、魯恩壇守護委員会で旧暦9月16日に祭祀を行なっている。
成三問先生の母親の実家があった場所で、彼が生まれた宅地である。1676年、緑雲書院を建立、後に魯恩書院とその名を改めるが、興宣大員君の書院撤廃令により撤廃され、その痕跡だけが残されている。
遺墟碑とは、嘗ての先賢の名残が残されている場所に、彼らを称え、同時に後世に伝える目的で建てた碑石である。1668年、宋時烈が通り掛けに荒れ果てた成三問の生家を発見し、この場に碑石を建て、現在は、碑閣を建てて保存している。宋時烈が綴った文に金鎮商の書体で碑文を刻み込んだ
1676年に建てられた魯恩書院は、興宣大員君の寺院撤廃令により撤廃されたが、地域儒林の各々が書院に祭られていた成三問、朴彭年など死六臣の位牌を集め、この場に壇を積み安置しては魯恩壇と名付け、毎年陰暦10月20日に祭儀を執り行っている。