将軍は幼い頃から天性が豪放英敏で勇力に優れ、18歳の時に虎鳴学校を設立して人材育成と新学問を教育した。光復団事件で3年間獄苦を経験した後、1917年満州に行き、3•1運動の前奏曲となる戊午独立宣言書に39人の民族指導者と一緒に署名した。 1919年、北路郡政署を組織し総令官になった。そして、士官練成所を設置して独立軍を養成し、31歳になる年にシベリアに出戦していた日本軍3000余人を和龍県青山里に誘い出し、1200余人を戦傷者にした7日間戦闘がまさに、大韓民国独立運動史上最大の金字塔となった1920年10月21日にあった青山里戦闘である。
1925年、金爀、崔瑩、羅仲昭などと一緒に新民府を組織して総司令官となり、1929年、金宗鎮、李乙奎などと一緒に韓国総連合会を組織して主席に就任し、在米同胞の教育と民生に注力する一方、中国の抗日勢力と連合して対日抗戦を準備していた時、1930年1月24日(陰暦12月25日)、北満州中東線山市駅付近の精米所の前で、日帝の扇動を受けた朴尚実の凶弾に殉死した。
洪城郡は1991年から、金佐鎮将軍生家聖域化事業を推進し、生家と玄関脇の建物、主人の居間を復元し管理舎と展示館を建立した。また、金佐鎮将軍祠堂は、
1998〜2001年まで聖域化事業推進で、2,880坪の敷地を確保し内•外三門、斎室、駐車場などを造成し、毎年10月に金佐鎮将軍の青山里戦闘戦勝記念祭を開催している。
金佐鎮将軍が31歳になった年、青山里戦闘で日本軍を殲滅に追込んだ武将としての威容と独立軍隊長としての凛々しい気性を表現した銅像である。鳩像に浮彫りされた座台には、士官生400名を養成した独立義烈像ㆍ青山里戦闘の勝利像と共に断腸之痛の詩を造形、金佐鎮の独立軍隊長としての業績が刻み込まれている。
白冶 金佐鎮将軍が生まれ育ったこの生家跡は、1991年から聖域化事業を推進して、生家と門屋、居間を復元、管理士及び展示館を建立した。
この碑石は、抗日運動と独立運動に一生を捧げた金佐鎮将軍の治績を書き留めた碑石である。この碑石は、1949年、大韓青年団洪城軍団の寄金で建立され、洪城邑 五官里 南山公園に位置したが、現在は、金佐鎮将軍の生家跡後方に造成された白冶公園に移転された。
金佐鎮将軍の祠堂である白冶祠は、1991年、白冶 金佐鎮将軍の聖域化事業推進に伴い、生家復元ㆍ周辺浄化と共に造成された。祠堂1棟、斉室、内三門、外三門などが新築、駐車場が造成された。斉号は、白冶 金佐鎮が臥龍川で武芸を修めたと言う意味を浮上させ臥龍斉とし、中国 和龍県での青山里戦闘を称え外三門を和龍門、内三門を青山門と命名した。
毎年陰暦12月25日に祭儀を執り行ったが、2004年から白冶金佐鎮将軍全勝記念ㆍ白冶祭りが催される10月25日に祭儀を執り行っている。